[エッセイ]村山道ツアーによせて

文・田村逸兵

 

“ディープ” なトレッキングツアーのはじまり

7月のはじめ頃、吉原商店街の外れにあるコンビニで久しぶりに西川卯一さんに会い「逸兵ちゃん今年は富士山登らないの?」と声をかけてもらった。富士山には何度も登っているが、卯一さんが山伏としても活動していることを知っていたので、山伏、そして彼らに関連があり地元でも知名度のある「村山道」に絡めたツアーを思い立ちお願いすることになった。「村山道トレッキングツアー」企画が立ち上がったきっかけだ。

現役の山伏がかつての修行に使われた道を案内するツアーということで、漠然と “ディープ” になるだろうなというイメージがあった。卯一さんともやりとりを重ね、「アサギマダラ」という美しい渡り蝶ががたくさん飛来するお盆前頃に「村山道」を2日間に分けて歩くスケジュールで開催することになった。

今回のツアーで歩く「村山道」は富士山最古の登山ルートとも言われるが、ガイドブックなどに表立って紹介されているルートではない。理由はいくつか考えられるが、そもそもご来光やピークハントを目標にする登山者の多くは五合目付近まで車やバスで行けてしまうので、五合目より下に当たる部分はわざわざ歩く必要がないということ。もう一つは、村山道には道迷いしやすい箇所も数多くあり、安全上公式な集客がしづらいという点もあるだろう。(ツアー後半、それ以外にも理由はありそうだと思うことになるのだが・・・)

 

荒廃した植林地に残る修験の痕跡

1日目。スタート地点となる村山浅間神社にて、卯一さんから「村山修験」についての全体像を説明してもらいながら出発。初めは少しアスファルト部分も歩きながら村山エリア最奥といわれている民家を通り過ぎ、いよいよ森の中へ。やはり整備のされていない箇所も目立ち、さながら探検気分を味わうことになる。

序盤の植林地エリアは、人工的に密植された木々が成長した結果、陽の光が地面に届かず下草が生えなくなり、保水力もなく土が弱い。それに加えかつての富士山噴火による溶岩盤の上に樹が根を張っているため、根が深くまで潜れず強風などで倒れやすい。こうしたことから、ちょっとした悪天候の影響でルート上の景色が大きく変わってしまうようだ。

村山道は、概ね「小さな沢」を基準に歩くようなルートになっているが、その沢が雨の影響で大きく削られてしまったり、倒木で道が塞がれていたりする。そのため基本ルート自体は存在するものの、卯一さんの現場判断で危険箇所を巻いたり、時には少し戻ったりして進むことになった。「去年と違う!」「この倒木は今年だね!」といった言葉が印象的だ。手入れをしていない登山道というのは自然によってあっという間に侵食されてしまうことを実感した一方で、森の中の様子が目まぐるしく変化しているのだと思うと少しワクワクもした。

道中、所々にA4の紙をラミネートした簡易的な手作り案内看板が出てくる。これらは「村山道」開拓の第一人者である畠堀操八さんが定期的に付けたり整備をしてくれているとのことだった。とはいえ実際には看板通りに行けないポイントも多く、一人で行っていたら看板自体を見落としていたかもしれない。

後半には周囲の植生がだいぶ変わり地面にも苔が生えたりと、荒廃した植林地から青々とした湿度のある森へ変化していく。こういった変化の中、所々に残る「修行のための登山道」であった痕跡を細かく紹介してもらう。札打ち場や馬頭観音といった見て気付きやすいポイントだけでなく、言われてみればなんとなく人工的な平地になっているかも?という箇所も修行のための施設があった跡だと説明してもらう。教えてもらわないと絶対気づかないだろう。

時折、卯一さんが吹く法螺貝が森の中に太くかつ繊細に響いていく。山伏同士の合図であったり熊よけの意味もあるということだが、どこか背筋がピシッとなる音色でもある。昔の修験者が僕らと同じルートを歩いていた様子を脳内にやんわり浮かべながら、自分のザッザッという足音も重なっていく。五感で味わう歴史ツアーといったところだろうか。

林道を使って一度村山道を外れ、西臼塚駐車場にて1日目は終了。卯一さんオススメの「自然によってできた遊べるスポット」も紹介してもらったが秘密にしておこう。

 

雲上の世界、江戸時代とその終焉の名残

2日目は、かつて「馬はここまで」という意味を込め「中宮馬返し」ともいわれた中宮八幡堂付近からスタート。そもそも、ここまで馬で来れるのか?と思える場所を昨日も歩いてきた気がするが。ここは富士登山においてある種関所のような役目があったらしく、周辺の木から切り出した杖を登山者に渡したり、夜の登山者へは灯りを渡したりなどしていたらしい。ここから先は危険だぞということか。

すぐそばの沢の反対側には女人堂跡がある。こちらも、「女性はここまで」という意味で「女返し」などといわれる地点だ。明治初めまで富士山は女人禁制となっていて、女性の修験者はここから富士山を眺め遥拝して帰っていたらしい。

何か信仰上の背景があるのかと思いきや、もともとは役行者が、息子の心配をする母親が追ってこないように、身を案じて「女人禁制」をしいた、という話もあるのだそうだ。卯一さんは「女性の母性に負けちゃうからさ。ここから先は山が険しくなるんだけど、厳しい修行の最中に女性がいると男は甘えちゃうんだよ。」と所感も交えた話をしてくれた。他のディテールもあったが、ほんとどは後付けで勝手に膨らんだ話らしく、いずれにしても単に「神聖だから」「危ないから」という理由ではないのは面白い。

標高1500-1600メートル程度のあたりから地面がいっそう苔に覆われる。溶岩のゴロゴロした地形にまとわりつくように苔が生えていて、ふかふかして気持ち良いが踏みつけるとダメになってしまうとのことでなるべく避けるように歩く。駿河湾からの上昇気流がこの辺りの標高で霧になり、水滴になり、苔が育ちやすい環境になっているのだろう。

僕はふだん、朝霧高原でパラグライダーをするのだが、その時に富士山をみると季節によってはちょうどこの辺りに雲ができている光景をよく見る。その中に入っていく感覚だ。ここを抜けると雲の上になるわけで、中宮八幡堂や馬返し・女返しがこの少し手前にあったように、なんとなく雲の上と下の境界線を昔の人たちも感じていたのではないかと考えたりした。

ガスに包まれたりしながら苔の中を進むと、車で五合目に向かう富士山スカイラインに交差する。いつも富士登山に行く時に車で通る道だ。脇の森からひょっこりゾロゾロ出てきて道路を横切り、また森に入っていく。こんなに面白い区間をいつもスルーして車でサクッと五合目まで向かっていってしまってたことを後悔した。地形はこの辺りから勾配がキツくなる。スカイラインは車で走っていてもかなりの登り坂を感じる部分なので、この勾配の変化で一気に富士山が近づいてきたことがわかってくる。手元のGPSに表示される標高も、少し歩くだけでグングン上昇していく。

道路脇すぐのところにあった鹿の骨とそれを覆う苔。パッと見では苔に覆われてわからないが卯一さんが教えてくれて持ち上げてみた。

気づけば苔畑も終わり、ツアーの大目玉、8月上旬の限られた時期しか確認できない「旅する蝶」アサギマダラのいる花畑を見にいく。あいにく小雨が降っており大群とまではいかなかったが、何頭も飛んでいる様子は見ることができた。

今回は偶然、移動状況調査のため羽根にナンバリングされたアサギマダラも発見した。何度も来ている卯一さんにとっても珍しかったようで結構興奮している様子だった。

倒木帯と呼ばれる辺りに入る。卯一さん曰く「これでもだいぶ歩きやすくなった」とのことだった。以前はとてもルートがわかるような状況ではなく、ナタやノコギリをもって山に入り、何年かかけて少しづつ切り開いていったと話す。

倒木帯の間で首無し地蔵が出てくる。中宮八幡堂辺りにもあったが、頭を落とされた地蔵が数体並んでいる姿は少々狂気を感じる。明治初期の廃仏毀釈によるものだ。顔の代わりにちょうど良いサイズの石がバランス良く乗せられていた。

終盤では、江戸時代から残るものとされる岩で道の左右が固められている箇所があった。卯一さんが「今自分たちが歩いてる土は江戸時代の人も歩いた土かもしれない」と何気なく放ったが、修験の道であることを思い出しシャキッとさせられたし、今まで何度も登った「富士登山」とは全く別の感覚を味わっていた。

すでに五合目と同じ標高辺りまで登ってきていて、ゴールの六合目(現在の登山道と合流する地点)まで残り30分ほどであったが、雨雲レーダーで大雨の予報が出たため、少し早めに切り上げることにした。交差した五合目周遊ルートを通って富士宮口五合目駐車場にて終了。本来、六合目まで歩くと、森林限界をこえて周りから植物が消えついに森から抜けるのだが、またの機会にすることにした。

後半の急斜面を、天気予報を考慮しペースを上げて登っていたため参加メンバーにも流石に疲れが見えていたが、五合目駐車場にて目の前に迫った富士山を見て笑顔になっていた。見覚えのある景色に出てホッとした反面、なんだか寂しさもあったのが不思議だ。

 

ガイドブックに載らない “自分だけがわかる感覚”

村山浅間神社をスタートして二日間に分けて歩いた村山道。自然の変化のグラデーションが非常に豊富だったという1つ目の印象は、自分の足で歩いたからこそ感じられるものだったと思う。また、その変化は標高差によるだけでなく、流れた月日、天候などにより時間軸をもっていることも学んだ。

2つ目の印象として、そういった自然の変化の中に、薄らながらも確実に残る修験道の空気感のようなものがあった。これは普通に富士登山をしている時とは全く違う感覚でうまく表現できないのだが、卯一さんのガイドもあり「富士山(村山道)の歴史の重み」がズッシリくるようだった。この感覚も含め、面白く変化する景色、豊かな村山道の自然をみんなにもっと知ってほしい。そして単純に、「仏像がある神社」なんてキャッチーで、それだけで十分面白いじゃないか!と思った。

一方、簡単に「だから多くの人に来てほしい」と言えない状況もある。ツアー後にも卯一さんから村山周辺にまつわる面白い話や、ちょっとダークな話も聞いた。このルートが表立って紹介されないもう一つの理由として、地元住民のみんながみんな村山道の復活や整備を進めることに対して積極的ではないという面があるようだ。これに対し、卯一さんは「でも歴史を見れば気持ちもわかるんだよ」とも話していた。

この「歴史を見れば」という言葉が気になったので自分なりにツアー後に色々改めて調べてみたが、村山修験は頑なに大衆化路線を選ばなかったこと、倒幕運動や廃仏毀釈による混乱があったことなど、実に時代の流れに人が、場所が、翻弄されてきた事実がわかった。そしてどうやら今もなお様々なことがこの地に渦巻いている。そのことを知っている卯一さんならではの先の言葉だったと思う。卯一さんは村山周辺の生まれではなく、いわゆる外様山伏である。自ら富士山に憧れ、ハマり、修行に行き山伏になった。だからこそ地元の方々とは違う視点や見方もあるのだろう。

なんとなく他所者を受け入れない雰囲気、というのは旅をしていると経験することがある。少々とっつきづらいが、いわゆる観光地になっていない空気の鋭さにドキドキしたりするし、蓋を開けてみると案外そうでもなかったりもする。そういったことは決してガイドブックの紹介には載ることなく、肌で感じ、見て、聞かないとわからないし、良い悪いで表現できるようなものでもない。まさに “ディープ” で、自分だけがわかる感覚なのだ。

僕が感じた、卯一さんと地元住民の方々の村山道に対する思いの絶妙なズレも、それ自体がひとつの思い出となった。だから僕は、こうやって自分の体験をもとに「とにかく面白い所だ!」と声をあげることに徹したい。

そんな声に反応し、この地を訪れるアーティストはどんなことを感じてくれるだろうか。それぞれの感覚や視点で、僕らが全く気づかなかった何かに気づいてくれるかもしれない。いや、気づかせてくれるかもしれない。アートの力でそういうことができるのではないかと期待している。はるか昔より信仰の対象として存在している富士山、そして多くの芸術家にとってインスピレーションを与え続ける地であること、それらを全身で知ることができる何かがここにあると強く思う。

 
Previous
Previous

マイクロ・アート・ワーケーション2022

Next
Next

現代の山伏と歩く“村山道“トレッキングツアー